透明境界線

生きていく。詩を書く。

滅茶苦茶な毎日も愛したい

一年が終わりを迎えようとしている。
本格的な冬がやってきたけれど、あまりに暖冬過ぎて、昨年のあの冬の寒さが恋しくなる。キーンと凍てつくような寒さが好きなので、暖かい冬はつまらなく感じる。
今年を振り返ろうとすると、きっと話は長くなるだろうしだらだらとした駄文が続くと思うから、ここではサクッと振り返りたいけれど、きっと駄文になるだろう。時間のある方は、読んでくれると嬉しい。

2015年の冬。兄とともに母の闘病に付き添っていた。母は67歳の若さで末期ガンだった。長いこと私と母には確執があって母を憎むことも多々あり、その気持ちを持ちながら、もうすぐ旅立つひとの側に毎日いるのが辛かった。私は余裕をなくし、一人でいる時間が苦しくて、友達に頼ったりもした。
春に近づくにつれ、母の容態は悪化していった。この頃から母が私に対して言う言葉も、『ありがとうね』や『おまえはもう大丈夫だ』など、まるで自分に残されている時間の短さを知っているかのようだった。私はこう思った。

死なないで。もっとそばにいて。お母さんが大好きなんだよ。と。

3月に母が他界し、それからの日々は実に魂の抜けたような、喪失感に覆われたようだった。喫茶店に行ってもコーヒーがまずい。煙草がまずい。そして食欲がない。眠い又は不眠。死にたい。
お母さんのそばに私も行きたい。ひとりで桜を観に行った。
満開で綺麗で、桜の花びらがふわりと舞い散り、儚さを見た。

春の5月くらいに、相方だった友達と付き合うことになった。
素直に嬉しかったが、デートを楽しんでいて”女の子”っぽく振る舞うのがつらかった。また、相手にも私の知らないところで相当な葛藤があったらしい。7月の初めに別れてしまったけれど、初めて本気で人を好きになって、相手から学んだことがとても大きくて、付き合えてとても良かったと、今でも思える。
その人とは今では親友だ。

夏からは、メンタルクリニックデイケアに真面目に通い始めた。集団の中で人に話しかけたり、空気を読んだり、そういう事が大変だった。
6月から2ヶ月たい焼き屋さんでバイトをするも、先輩からのイビリに負け、すぐさま辞めてしまった。かなり悔しかった。病気を隠して仕事をするのは、もう無理なのかもしれない。

この頃から希死念慮に苛まれるようになり、たびたび自傷オーバードーズと、親友に対する試し行為をする。
8月の終わりにはその親友と由比ヶ浜の海で遊び、貝殻を集めたり写真を撮り合ったりした。私は今まで、夏に誰かと遊んで楽しんだ事がなかったので、この一日がとても特別なものになった。

秋に入ると、母の死を受け入れられない苦しみとか様々な後悔の気持ちが大きく心に広がり、再び希死念慮に落ちた。久しぶりに休養入院をしたいと思ったし、とにかく毎日が地獄であった。
それが秋の終わりまで続くことはなく、10月の終わり頃、母に会いにお墓参りに行って、お墓の前で泣いて、ただそれだけですんなり気持ちが楽になれた。
11月ごろからは希死念慮が緩やかになり、日常生活の、例えば家事だとかそういうものをルーチン化させていく事に意識を向けてみると、ジェットコースターでドラマのような毎日は嘘のように消えた。
言ってみれば退屈だけれど、これもアリなのかと思える。

振り返ると、やっぱり母の闘病と死が、私を色々良くも悪くも変えたのだと思う。そして、それは周囲の人々をも巻き込んでしまう結果となった。ここ数年の中で、精神面は最悪だった。私は弱いし、あらゆることを乗り越える力はまだまだ少ししか身に付いていない。
死にたい気持ちも、まだある。友達に頼りすぎる時も時々ある。家事だってパーフェクトではない。私は『これから』なのだと思うし、そう思いたい。まだ人生は終わっていないんだ。

母の死はなかなか受け入れる事が難しい。今までどれほど救われていたのか、偏愛だったが、それもまた愛のひとつだったか。それがようやく分かった。

私は、この滅茶苦茶な人生を、いつか愛せるようになりたい。とんでもないけれど、愛おしいなと。