透明境界線

生きていく。詩を書く。

生きていくための自傷行為と生きづらさの根本の体験

「生きるための自傷」とも言われる、リストカットなどの自傷行為


ここ二ヶ月のあいだ、どうしようもなく苦しくなると手首や首を切るようになった。十代後半に発病した頃は毎晩部屋にこもってお酒を飲んで切って、処方された安定剤をたくさん飲んでまた切って、そんな生活だった。精神病院に入院して退院したあとはすんなりやめられた。どうしてだろうか?今でもそれは分からない。スマホのスケジュール管理アプリに記録をしていて、今月はドクロマークの日にしている。


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ここ数日間不安定には変わりないけれど、鬱々としつつも詩を書いたり、夜は料理を作って兄と喋りながら食べたり、不思議になんとかなってる。10年後に自傷が再発するなんて思いもよらなかった。

とても悔しいのに自傷に救われる。そう、矛盾している。

ドクロマークのない日を増やしたい。
切ることで苦しみ悲しみを浄化しているのだと思う。「何か」をリセットしているんだと。
自傷する直前くらいの時の私の気持ち(認知)をここに書こう。

 

・自分はどうしようもない人間なんだ、罰を与えよう

・ずっとこの先もひとりで生きてくなんて、悲しい
・死にたい。
・死にたいけど生きてのけたい。やりたい事がまだある
・切るのは死ぬよりはマシ
・○○に○○を断られた(○○と言われた)。

 

このような感じ。

今自分で書きながら、まあ随分と考え方が極端でギリギリな生き方してるなぁ〜と感じた。なんとなくするのではなく、本当にどうしようもなくて。昔とは違い、ちゃんとガーゼで圧迫止血をし、マキロンで消毒をしている。傷は浅い。もっと深くとエスカレートするのが怖い。ほかになにか対処法がないかと、月に二回通っているカウンセリングで話もしている。

以上、私のリストカット事情について。また何かあればここに書こうと思う。

 

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私の病気の根本的な面も。
Twitterにはつぶやいているけれどブログには書いていなかったことも書いておこう。両親のことを少し。

私は小学五年生の夏に、父の事業が失敗し引越しと転校を止むを得ずすることとなり、その慣れない転校先で仲間はずれと無視をされたり、めまいが続くので小児科に受診をして検査を受けたところ、起立性調節障害と診断を受けた。吐き気がしても無理をして学校へ行ってもひとり。お昼休みもひとり。はじまってしまった思春期ニキビを女子にからかわれ、子供ながらに傷つき、最終的に不登校になった。というよりも自らそう「決めた」。


毎朝父が私の部屋へ無断で入ってきて、布団に潜っている私を叩き起こす。起きないと布団をひっぺ返し、私の身体を持ち上げて顔面ビンタをしたり、蹴ったりあれこれ。母は父を止めようとはしなかった。“お前は義務教育を怠っている。どうしようもない。馬鹿野郎、この野郎”などと罵声を浴びられたり、暴力を振るわれたことが今の歪んで偏った考え方に大きく関係しているようだ。

愛着障害、ACにつながっていった。

 

私はただ両親からごくごく普通の愛を与えられたかった。ぎゅーっと抱きしめられたり、笑い合ったり、たまに喧嘩したり。両親が他界して居ない今、私は親にありがとうもごめんなさいも言えない。それは酷く苦しい。

和解ができない。許すこともそうしないことも。

 

自傷する前に、今は亡き父の罵声が聞こえる。
「お前はダメな奴だ」と。

 

私は言い返せるようになりたい。「そんなことない、私は優れた人間だ。私は悪くない」。

それが出来るようになった時、自傷がやめられるかもしれないし、両親の呪縛からほんのすこしだけ解放されるだろう。