透明境界線

生きていく。詩を書く。

うつ病で何もできなくなった初秋

日中起きられず長い長い夢を見るようになった。単純に起きられないのもあるし、起きて活動したくない、という気持ちもある。主治医曰く今はうつ病の症状がメインに出ているそうで、熱帯魚の世話とお米を炊くのでいっぱいいっぱいになりつつある。
今日は起きた時刻が17時半。昨晩は23時ごろにはお布団に入ったので、かなり寝すぎてしまった。慣れないインチュニブ3mgの影響や低気圧もあるけれど、気力がなくてただただレム睡眠を続けていても、体が休まることがない。

うつも深刻で、数日前は未遂をする寸前まで至った。
絶望感が湧きだち、悔しさだとか怒りだとかそういった感情にまみれて涙が全然止まってくれなかった。赤信号の交差点を車道に体を乗り出しすれすれで、立った。ずっどーんといけたところで死ねるかどうかなんて、やってみないと分からない。家に帰ったらペットが待っているのに、その時はそれを一切考える余地もなかった。信号が青に変わり、無感情で帰宅して、薬を飲んで横になった。

今日も洗濯物がたためない。夕ご飯が作れない。風呂には5日くらい入れていない。何もしなくても、誰にも文句は言われないし、こんなにうつでくたばっている時に何かをやる必要もない。けれど、家事や自分の身支度が出来ないだけで悔しいというか、「どうせ私なんて」を助長させるのだ。生きて呼吸して眠ってる自分を褒めても意味がない気がしてくる。

それでも、我が家のベッドサイドのこじんまりとした場所で暮らしている熱帯魚たちの毎日の餌やりは徹底している。以前、主治医からペットを飼うのはどうか?と言われていた時期があり、その時は兄と暮らしていたペット絶対不可物件だったので飼えず、今はようやく飼えているが、主治医の言った意味がよく分かる。
責任を持って飼育しなければならないので、自然と責任感がうまれる。この子たちは私しか頼りがいないので、 どんなにしんどかろうが餌をあげたり声をかけたり水槽の水換えをしたり、生活の中でのひとつのメリハリみたいなものも出来る。それとひとつ大きいのは、寂しくなくなったという点。見つめているだけで安心する。
魚は短い寿命のなかで必死に生きている、私ももう少しは生きていてもいいかな、そう思わせてくれる存在でもある。

このブログを書き終えたら、炊けたお米をタッパーに入れる作業がある。できなかったら仕方がない。明日のことなんか考えたくもない。寝れたら奇跡、起きられたらそれも奇跡。くらいに思うしかないのだろう。